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日々徒然に

日々徒然に

2010年に劇場で観た映画

「シャネル&ストラビンスキー」


久々のフランス映画だ。シャネルとストラビンスキーという、どちらも歴史に名を残す人物だが、この二人の間にロマンスがあったとは知らなかった。

フランスのデザイナーであり実業家のシャネル、ロシア革命から逃れてきた作曲家ストラビンスキー、どのような恋模様だったのだろうか。

 ストラビンスキーの奥さんが、シャネルに尋ねる。
「他の明るい色は、お使いにならないのですか?」
ココ・シャネルは、「黒がある限り」と、応える。

どちらも大人だった。恋に落ちた二人は、ココ・シャネルは「シャネルの5番」、ストラビンスキーは「春の祭典」をそれぞれ完成させる。

二人は、それぞれの作品に恋を昇華させて、また別々の人生を歩き始める。






「花のあと」


 この作品、お祖母さんが孫達に50年も昔の話を聞かせるという形で進んでいく。といっても、現在の年老いた姿は見せなくて声だけである。

 東北の一小藩の話だ。ヒロインが、侍女を連れての花見から話が始まってゆく。

 ヒロイン「以登」を演じた北川景子、私は以前に、テレビで「モップガール」という喜劇を見ただけだったので、どのように変わるか楽しみだった。

 今回は、しとやかな武家娘と女剣士を演じ分けなければならない。静と動、さすがに女優である、合格点の演技だった。ラスト近くの真剣での立ち合い、迫力があった。

 そんな以登を温かく見守る婚約者、才助を甲本雅裕が好演している。逞しくもなく美男子でもない才助だが、以登の頼みに的確に応えてくれるし、最後は、そっと手を差し延べてくれる。

 甲本雅裕といえば、先日見た「神童」でも調律師に扮していたし、「ねこタクシー」にも同僚の運転士の役で出演している。個性の強い俳優さんだ。

 切られ役というか悪役を、歌舞伎役者の市川亀治郎が演じている。これがまた様になっていた。そういえば「武士の一分」の時も、歌舞伎の板東三津五郎が敵役だった。

 この作品、もう一つの面から見ると、「養子さんは辛いよ!」と言うことだ。しかし、この養子という制度、武家の二男、三男などにとっては救いの神なのだ。養子に行かなければ、一生部屋住みで終わるのだ。

 男子に恵まれなかった家にとっても、この制度は願ってもないものだった。跡継ぎがいなければ、家は断絶する。

 一つの映画でも、あらゆる角度から見ることが出来る。落ち着いた演技、立ち回り、話の展開、時代劇もいいものだ。





「カティンの森」



 見終わった後、2、3時間、腑を抉るような拳銃の鋭い発射音が、耳について離れなかった。これがテレビだったらそうでもないだろうが、映画館だと銃声が臨場感を持って伝わってくる。

 カティンの森の事件というのは、第2次世界大戦が始まる前に、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、それと同時期にソビエトもポーランドを占領して、事実上、地球上からポーランドという国が消えてしまった。

 ソビエトは、ポーランド軍の将校約2万人を収容所に送り、そして虐殺した。第2次世界大戦が終了した後も、ソビエトはナチスドイツによる虐殺だったと言い続けてきた。しかし、ソビエト連邦の崩壊と共に、過去の過ちも白日の下に晒された。

 この映画を撮ったのは、「地下水道」「灰とダイヤモンド」などで知られるポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督だ。彼の父もカティンの森の犠牲者だった。

 ある将校が、手帳に処刑までの出来事を綴っていた。後にその手帳が遺体と共に出て来たが、当然日の目を見ない運命にあった。だが、あらゆる人の努力によって妻の元に届けられた。

 殺害方法も、車で森の奥まで連れてきて、紐を首に掛けて後ろ手に縛って動けないようにしておいて、後頭部を拳銃で撃ち抜くという酷いものだった。そして、死体を掘ってあった大きな溝に次々と投げ込み、それをブルドーザーが埋めてゆく。

 一つの国の軍隊を無力化するには、将校を抹殺してしまえば事足りるのだ。後に残された兵士だけでは、烏合の衆なのだ。

 カティンの森事件については、ポーランドの殆どの国民がソビエトの犯行だと言うことを知っていた。しかし、ソビエトを中心とする社会主義圏の一翼を担わされていて、誰一人として言い出せなかった。

 この事件は、スターリンという、稀代の独裁者によって引き起こされた訳だが、人間がいる限り、また繰り返される過ちだ。

 処刑を行ったソビエト軍の将校や兵士たちも、我が家に戻れば良い父でありよい息子の筈である。世の中が激動の時代になれば、個人の主張など流れに押し切られてしまう。

 人間の持っている、愚かさや悲しさを感じる映画だった。この事件から70年が経ったが、人類は全然進歩していない。ある意味では、この時代より退行しているかも知れない。





「キャタピラー」



 戦争で手足を失った男とそれを介護する妻の映画だとは知っていたが、キャタピラーの意味が分からなかった。戦車兵だったのか?などと思いながら観たが、歩兵だった。

 とある山村で、出征兵士を送る行列のシーンから始まった。その列を退かしながら、一台の乗用車が、茅葺きの家の前で止まった。

 唖然とする嫁、両親、弟。2人の若い将校が、「少尉殿を送り届けました」と言って、帰っていった。

 嫁は「あれは、うちの人ではない!」と、一時的に錯乱状態になる。無理もない、手足を失い、耳も聞こえなくなり、顔半分はケロイドだ。

 懸命に介護する妻だが、その心は揺れ動く。食欲と性欲だけになってしまった夫。

 手足を失った男は、軍神として扱われ、その妻はそれを介護することを義務づけられる。

 男は寝かされているか、藁で編んだ大きなカゴに入れられている。時々、軍服を着せてもらい勲章を胸に飾り、リヤカーで外に出る。

 時が経つにつれ、それぞれの精神状態が変わってくる。男は、帰郷後再三求め続けた妻の肉体を、怖がるようになる。男の脳裏に、戦地で乱暴した女がフラッシュバックしてくるのだ。

 妻は、戦争に行く前の夫から、殴られていたことが甦ってくる。子供を産めない女といっては、殴っていたのだ。

 男は自己嫌悪で、頭を壁に何度も打ち付ける。それを見る妻も、「芋虫ゴロゴロ」と、こちらも愛情と憎しみが入り交じって、笑いながら見ている。

 大学時代に観た「ジョニーは戦場に行った」を思い出した。ジョニーも手足を無くし、耳も目も顔ごと失っていた。でも、彼の思いは、原作者の想像の産物だった。

 しかし「キャタピラー」は、社会で生活している女性と手足を失った男性という、我々の目の届く範囲で起こる事を扱っていて、より現実感を持って迫ってくる。

 帰りのエレベータ(この映画館はビルの4階にある)の中で、着物姿の老婦人が、
「重いね! でもこれも戦争の一つの側面だからね」と、呟いた。

 私は、この映画は良いから観なさい、とは言い難い。これは戦争の一面を扱っているが、全てではないからだ。戦争観は、人それぞれ違う。

 戦争を起こさないことが第一だが、国民の平和を守るには最低限の軍備も必要だ。ただ平和を唱えるというのは、無責任だ。

 帰ってキャタピラーの意味を辞書で引いたら、「芋虫」とあった。キャタピラーには、踏みにじるという意味もあるらしい。キャタピラーは、様々に取れる言葉だ。



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